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比較の無意味さ

(前略)意地の悪い奴、嫌なヤロウというのは、消えてゆく姿です。「あいつより俺のほうがいい、あいつはだめだ」、それも消えてゆく姿です。そう思いがちです。

いい人でもたいがい比べて見ます。

他人と自分を比べて見るのは、業のくらべっこをしてるんです。業なんて比べたって同じことです。たいして違わない。そんなことじゃあない。

業というのはみんな消えてゆく姿で、実際には無いのです。

あるものは、神さまの子としての兄弟姉妹なのです。人間は互いに、神さまの子としての兄弟姉妹、という心にならない以上は、地球界は終わりです。

と一口に言うけれど、これがなかなかむずかしいんだね。「先生にああ言われたけど、まだあの人をよく思えないんです。私はよっぽど悪い人間で、業が深いんですね」と思うからね。

それも消えてゆく姿なんだけど、そう思いがちなんです。そこで私はそう思わせないように、「人を恨む心がある、人をさげすむ心がある、しかしその心も消えてゆく姿なんだ」と教えているんです。

相手をいつも、「嫌な奴だな、あいつ。先生にああいわれたから、いい奴に思おうと思うけれど、やっぱり嫌な奴だ」と思うことがありますからね。

そこで、「嫌な奴だな、消えてゆく姿だ、世界人類が平和でありますように」とやるんです。あるいは、「あの馬鹿ヤロウが、世界人類が平和でありますように」と思って、馬鹿ヤロウと思い、嫌な奴だと思い、蹴飛ばしてやろうかと思う想いを持ったままでいいから、世界人類の平和を祈る祈りのほうにひっくり返るんです。

初めはなかなかむずかしいけれど、だんだんやってると、嫌な奴も何もいなくなっちゃって、ただ気の毒とか、あの人が立派になりますようにという、祈りが自然に涌いてくるのです。

そうなればしめたものです。それは菩薩行ですから、菩薩になるのです。信仰もそこまで行きませんとね。(後略)

五井昌久著『空即是色―般若心経の世界』より