(前略)自分でやるという想いがあるうちはダメです。自分でなんか洗濯できないんだから。(※ここでは魂の洗濯についてお話しになっている)やったって、たかだか人よりましに愛があるくらいなもんです。
持って生まれた愛の天才、愛の深ーい人がありますね。シュバイツァーのような人がいます。ああいう人は特別な人であって、一般大衆はああいうことはできっこない。
音楽家としても素晴らしいんだし、神学者としても素晴らしいんだし、それですましていればお金が集まるし、先生先生って立てられているのに、そういうものを捨てて、アフリカ原住民のために医者としてアフリカへ行って、一生懸命活動してるんでしょ。
栄耀栄華ができるのに、そういうものを捨てて働いているわけなんですよね。ふつうの人はできないですよ。
「みんなシュバイツァーのようになれ!そうならなきゃダメだ」と言われたって、できっこないものね。みんなシュバイツァーになれるわけじゃないし、ガンジーになれるわけじゃないし、キリストになれるわけじゃないんですよ。これは特別な人たちだからね。
よく宗教家が特別な人をもってきて、こうなれなれと言うんですよ。「そんな特別な人になんかなれませんよ。なれるくらいなら、あなたにものを訊きやせん」と言いたくなっちゃうね。
なれないから、どうしたらなれるか教わってるんじゃないか、このバカヤロ(笑)って言いたくなっちゃうでしょ。わかってないから訊くんだもんね。
わかってりゃ訊きやしないよ。一人で救われるんなら救っちゃうんだけどさ、一人で救われないから、救ってもらいたくて来るんだからさ。(つづく)
五井昌久著『講話集〈4〉想いが世界を創っている (講話集 4)』より