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救世の大光明と世界平和の祈り

(前略)世界平和の祈りをした時は、自分はもう大光明なんです。

なぜ大光明になるかというと、世界平和の祈りというものが大光明なんです。

救世の大光明と私が書きますね。なぜ救世主と書かないのか、救世主というと、一つの人間に見えるんですよ。そういう観念がある。

救世の大光明というと、パァッとひろがった光で、誰にでもゆく。そこがなかなかうまいところなんだ。(中略)

救世主というと「おかしい」と反感を抱かれます。救世の大光明といえば、誰も反感を抱かないでしょう。

救世主が私に働いている、と言ったっていいんですよ。でも、ほかの宗教の人が「なんだ自分ばかり救世主」って思うでしょう。

救世の大光明なら、どこへでも働くんだからね。

どういうところにまず働くかというと、世界平和の祈りをしたところに働く。

一番楽に働けるのは、“世界人類が平和でありますように”という唱え言です。

どうして楽に来るかというと、私が世界平和の祈りとつながっているから、救世の大光明と私がつながっているから。

この唱え言をすれば、救世の大光明が燦々と輝くという大神様との約束になっているから、そこへ働いてくるわけです。(後略)

五井昌久著『講話集〈2〉みんな救われている (講話集 2)』より