一人の人間が業につぶされているとしますね。
お前はそうしちゃいけない、そんなことしちゃだめだ、そんな欲張っちゃだめだ、と口でいっても、これは業を叩いているのだから、業はますます頑なになって、光、本心を覆ってしまうわけです。それではいけないから、二人なり三人なり同志がいて、お互いに知り合いの者が、この業を取るために、こちらから、「神様お願いします。あの人の天命が完うされますように、どうかあの人が立派な人になりますように」という祈りの心を出すと、祈りは光であり、光は神様のみ心だから、その人の業をはぐわけです。業を薄めてしまうわけです。
祈る人が二人になり、三人になり、このように団体になってくると、大勢の祈りの力が光になって、一人一人の業を消してゆくわけですよ。だから、言葉でいい悪いといってもだめだ。
そうやって光を投げかけてあげると、いつの間にか業がはがれてしまって、その人は神様の軌道に乗れるわけです。というのは、本心が現われるわけですね。
そういう生き方を私は教えているわけです。そこが今までの宗教や修養と違うところなんですね。
五井昌久著『責めてはいけません-聖ヶ丘講話』より