(つづき)人間は霊であり、肉体はその一つの現れであって、人間そのものではない。人間とは神の生命の法則を自由に操って、この現象世界に形の上の創造を成し遂げてゆく者であると識って、それを実行している人。この人は覚者であって、自由自在心である。
即ち、この肉体を持ちながら、みずからが、霊そのものであることを自覚し、その霊とは神そのものの生命であることを識り、神我一体観、自他一体観を行動として表現してゆく人、例えば、仏陀、キリストの如き人びとである。
真の人間を知るということは、神を知るということと一つである。
いかに神、神と神を追い廻しても、その人の行いが愛と真に欠けていては、その人は真の人間を知らぬのであるから、救われるわけがない。
人間の尊いのは、肉体が偉大だからでもなく、肉体の知識が秀れているからでもない。肉体の知識が多いのはよいが、あくまでそれも人間の本性、霊的智慧、いわゆる神智を元にしていなければ、かえって人類を不幸に陥れる。
唯物論者の行動が非常に論理的に巧緻でありながら、それを行動にうつすと社会を不穏にし、世界情勢を不安動揺せしめてゆくのは、神智によらないからである。
即ち、人間とはいったい、いかなる者かを知らないからである。(つづく)
五井昌久著『神と人間―安心立命への道しるべ』より