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職業と天命と人間の努力③

(つづき)(中略)わたくしどもの会に来ていらっしゃる方は、天命というものがハッキリ判っていらっしゃるんですね。天命というのは、根本的には世界平和のために役立つことが天命だと、ハッキリ判っている。「天命を果すためには、世界平和の祈りを祈ろう!」と、そうすると気が明るくなって、明るい生き方が出来る。というような生活をしているわけなんですね。それが本当なんです。

天職と天命が一つになる人もあるし、それが別になる人もあるんです。しかし、どちらにしても天命を果すためには、あらゆる業想念を超えてゆく努力をしなければならない。嫌なこともただ、「いや!」というんじゃなくて、どんな嫌なことも一つの大きな目的のためには、こらえて超えてゆかなければいかないこともある。というような努力が必要なんですね。

それは意志力の働きでもあるし、やっぱり努力ということになるんですね。人間の努力というものは、やっぱり肉体にある分霊(わけみたま)としての自分が、自分の想い、意思として努力しなければいけません。はたから見れば、守護霊さんが努力させるという形なんだけれども、自分としては、自分の努力としてやらなければいけない。

自分で努力もせずに、「神さまがやってくれるからそのうち何とかなるだろう」というのは信仰でもなんでもないんですよ。それは怠惰なる精神であって、自分の運命、生命を他に依存しちゃっている姿なんですね。

守護霊守護神に依存するんじゃなくって、人事を尽くして天命を待て、という言葉がありますね。私が言うと、”天命を信じて人事を尽くせ”というんですがね、人事を尽くさないと天命が完うされないんです。自分が人事を尽くしていると、常識では出来ないと思われるようなことも出来るようになってゆく。それは守護霊守護神が応援していてくれるんです。

人事を尽くさない時には、守護霊守護神は応援しているけれど、応援がしにくい。そうするとね、無理やりね、つらいところへやって働かしたりね、自分が思いもしない嫌なことがあったり、まあ、いろいろして練磨されちゃうんですね。嫌でも応でも人事を尽くさなきゃいられないような立場に追い込まれるわけです。

宗教をやる人でも、神さまに全託するということをはき違えることがあります。自分が怠け心で、自分が努力するのが嫌だから、あるいは、一生懸命やるのが嫌なんですね。なんか安易な生活をしながら、なんか安易な心持ちでいて、それでいて神さまに助けてもらおうとする、そういうのは宗教じゃないんですね。それは怠惰なだけ。

自分は一生懸命、道を求め、天命を求め、努力した暁に、守護霊守護神の実体を感じたり、「ああ、守護霊守護神がいらっしゃるんだなぁ」と観じる。そういう形が、まあ、一番いいわけなんですね。

だから、守護霊さん守護神さんに感謝をしながら、やっぱり誠を尽くし、誠心誠意つくして、自分の置かれた立場で、一生懸命努力することが、やっぱり人間として尊いんですね。それを宗教やってると、つい間違えるんです。お任せなさい、全託なさい、といいますね。するとね、お任せというとね、なんかね、なんにもしないでいいような感じがしちゃうんですね。(つづく)

五井先生のある日のお話しから