世界の平和を念願し、自己の安心立命を願う者は、自己の想念の中に、神だけを住まわせておいて、他の何ものをも住まわせてはならないのです。
神とは愛として、真として、平和として、調和として、善として、美として、心の中に住んでいるもので、そうした想念が行為として外に現われたとき、その人が神を顕した、といえるのであります。
そして、その他の想念、つまり、悲哀、憎悪、妬心、闘争等々の自己の心を損ない、他を傷つけるような想念が脳裏をかすめたときは、神のみ心を過去において離れていたマイナスの想念が、今現われて消え去ってゆくときである、と想い、そのたびごとに神のみ名を呼ぶのです。
何故、そうした想念は消え去ってゆくものであると断言するかと申しますと、この世には神のみ存在するのであり、人間は神の分霊であって、神のみ心の他の業想念など存在するわけがないからで、在るように見えるのは、その人間が過去において、自分が神の分霊であることを知らなかった無知の所産であって、それは、自分が実存在と認めなければ、そのまま消え去ってゆく幻影のようなものであるからなのです。
こう考えてまいりますと、誤ちを誤ちと認めれば、その人間が自分を責めさいなむ必要も、他を責めさいなむ必要もないので、この世に責め裁く必要が一切なくなってしまうのであります。
ですから、今日までの宗教のように、各自の心の持ち方を指摘して、いちいちとがめ立てするようなことをする必要はなくなって、完全円満性の神のみ心一元の生き方が次第に出来てゆくのであります。
五井昌久著『愛・平和・祈り』より