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南無妙法蓮華経とは(後半)

(つづき)南無妙法蓮華経は、自分や自分一家を救ってもらうために唱えるものではありません。

世を救い、国家を救い、人類を救うために、自己の生命を投げ出し得る人たち、つまり菩薩級の人たちが唱えて、はじめて、その意義が現われるので、単なる一般大衆が自分を救ってもらえるつもりで唱えたりしたら、実に危険なことだと思うのです。

言葉はすなわち神なのです。ですから、一度表現された言葉は、その内容にもつ意義の通りに動いてゆくのです。

言葉の意味も知らず、その意義も知らず、やたらに唱えたり、しゃべったりすることは非常に愚かなことなのです。(中略)

日蓮上人もそのことをよく知っておられたとみえて、「法華経の行者は、種々の法難に会うであろう」とはっきり言っているのです。それは当たり前なのです。私は仏だ菩薩だ、みんな寄っていらっしゃい、救ってあげます、と宣言しているのですから、肉体の人はおろか、幽界からも救われたい霊魂が、われもわれもと憑(かか)ってくるのです。

呼び寄せておきながら、自分自身にそれを浄め救う力がないのですからたまりません。種々な難がやってくるのです。

しかもはじめは、このお題目を唱えれば救われる、と信じていて、精神が高揚していますから、種々なものが憑ってきても、それを払いのける力がありますが、次第に力が弱くなってくると、本来が悟って唱えているわけではないのですから、次第に憑念(ひょうねん)に身動きならなくなってくるのです。

もし自己に浄める力の無いことを悟ったならば、まずお題目に先んじて、守護霊、守護神の加護を念じ、守護霊、守護神に憑ってくるものを浄めてもらうつもりで、「南無妙法蓮華経」と唱えればよいでしょう。

そうすれば、そのことそのものが菩薩行になってゆくわけです。この理を知らず、念仏もお題目もすべて同じなんですよ、と教えている宗教家もありますが、とんでもないことで、困ったものだと思うのです。(後略)

五井昌久著『白光への道』より