(前略)新約聖書にあります心貧しき者は幸いなりというのと、心豊かな生活というのは反しているのではないか、説明してほしいという質問です。
「幸いなるかな、心貧しき者」というキリストの言葉の、「心貧しい」というのは謙虚ということです。心が謙虚である、どんな才能があっても、どんな地位があっても、自分はへりくだっていて、すべては神様のみ心により、神さまの力によって、自分がさせていただいているんだ、という想い方、心というものが、心貧しき者というものなのです。
ふつう心貧しいというと、物が欲しかったり、お金が欲しかったり、地位が欲しかったりする状態が、心貧しいと思いますよね。けれど、そういうことではなくて、「へりくだり」のことをいうのです。
心豊かな者というのは、現実的にどんな貧しい生活をしていても、いつも豊かな心で、神のみ恵みを心の中にいっぱい受けて、すべてがありがたいなあ!なんといういい空だろう!なんといいこの大地だろう!なんて美しい花だろう!風も気持ちいい!水の流れも快(こころよ)し!小鳥たちがさえずっている……ああ、なんていいんだろうな!というような、どんなに生活環境が貧しくても、心が大らかに、美しく、感謝に満ちていれば、心豊かな者なのです。
したがってどんな環境にも負けずに、環境に把われずに、いつも感謝の心がいっぱ心の中に満ち満ちている人は、謙虚であって、しかも心が豊かである、ということになるわけです。
宗教の根本は、環境に把われないで、いかなる環境においても、心が常に豊かであり、明るく、美しく生きる、そういうことで、これが一番大事なことです。
心が縮(ちぢ)こまって、環境に負けて、病気なら病気という環境に負けて、心も命も縮こまる。貧乏なら貧乏という環境、あるいは不調和という環境に災いされて、それで心もせかせかしている、あるいはみじめになっている、縮こまっているというのでは、宗教精神ではありませんで、そういうものから脱却するために、宗教精神が生まれたのです。(後略)
五井昌久著『心貧しき者は幸いなり』より