(つづき)そのように、たとえどんな人に会っても、「あ、その人は業想念が消えてゆく姿なんだ。あの人が悪いんじゃないんだ、人間は神の子なんだ」、「あ、それは業想念が消えてゆく姿なんだ」と思えるようになると、自分のために都合悪い人であっても、それは都合が悪い人ではないんです。
自分に都合が悪いように現われるのは、自分の業想念というものを、その人がとってくれているんです。たとえば「どこかへ行きたい」という時に急に客が来る。それも嫌な客が来ると、「ああ、嫌だな、何でこんな時に」と思うでしょ。
だけど、頭から言えないから、仕方ないので、ジリジリしながら相手をしているうちに、とうとう行かれなくなることもありますね。しかしそれは、その人が悪いんじゃなく、何かの因縁があって、業想念があって、消えてゆく姿として、向こうは消してくれていたわけです。
あるいは、その人はその日、どこかへ行かなかったほうがよかったかも知れない。そういうふうになっているんです。
すべてその場その場で現われる出来事を、自分の都合だけで、それもその場の都合だけで、いい悪いを考えたり、イライラするようなものは、すべて業想念なんです。
だからあくまで、この世の中で現われてくるいいことも悪いことも、みんな消えてゆく姿だと思わなければいけないんです。
それで何を思っていればいいかというと、世界平和の祈りをしていればいい。
自分は世界平和の祈りの中に入り込んでしまっていれば、業想念はどう来ようと問題ではない。
どんな悪いことがあろうと、いいことがあろうと、いいことがあれば喜べばいいし、悪いことがあれば消えてゆく姿だと思えばいい。
もうすべてそのまま、消えてゆく姿だと思えばいいです。
いちいち自己判断しないほうがいいんです。(後略)
五井昌久著『自由解脱への道―聖ケ丘講話』より