(つづき)
『無名は天地の始なり。有名は万物の母なり。』
無名というのは、宇宙万物を創りなす根源の力、相対的な何もの何ごとも現れ出でぬ以前の、すべての働きの根源の創造力そのもののことであります。
それは、相対に現われぬ根源の力であり、絶対なる生みの力でありますから、何ものもその力に対して、名をつけることは出来ません。
この創造力、絶対力、宇宙に充ち充ちるものを、人類が始まってから、宇宙神とか大生命とか、絶対者とか、創造主とか、道とか、種々と名をつけたのであります。
無名といっても、こうして文字に書き、言葉に現わせば、もう、無名という名がつき、言葉になるのですから、人類がすべての根源の力を説明するためには、どうしても仮の名をつけて呼ばなければならなくなります。
そこで私は、単刀直入に神と呼ぶことにしたいと思うのです。
神は天地の始めである。ということは、天地は神の中にあり、神の一つの現われであるということであります。
天地と申しましても、私たちがこの肉眼で見ております、青空とか大地とかいうより、もっと深い、もっと奥の、霊的な天地があるのでして、その霊的な天地が、この肉眼に見える天地とも現われ、人間内部にも、天地、あるいは陰陽として、そのはたらきをつづけているのであります。
ただ神という名がつきますと、その神という名によって、その形をすぐ想像したくなりますし、神の道というような、一つの型をつけたくなるのが、人間のくせであります。
そこで老子は、神とか絶対者とか云わないで、無名という、把われることのない表現の仕方にしたのだと思います。
(つづく)
五井昌久著『老子講義』より