(つづき)
今の質問の中では、”虚無”と書いてますが、そういうように普通のお坊さんは説くわけです。無い無いづくしになりますから、仏教をやっている人とか、お坊さんの中には、虚無主義の人が多いです。
すべてこの世は仮の姿で、無いとか虚無なんだとかいうと、何する気力もなくなってしまう、目的がなくなってしまう。無目的、虚無ですね。そういうふうに説きますと、生きている張り合いも無ければ、何もなくなってしまう。
無だ、虚無だといわれて、ハッと思って悟りに入る人はめったにあるもんじゃなくて、今度は虚無にとらわれてしまって、無いものなら何をしてもかまわない、どうしたっていい、ああ生きてゆくのは面倒くさい、なんて自殺したりする形になってゆきやすいのです。
ところが、お釈迦さまはそういう説き方をしたのではないのです。
人間の想いからとらわれを離すために、説いているわけです。”この現われている姿は、五感に現われている肉体も事柄も、想いもすべて、それは本当のものではない。仮の姿である。いわゆる虚から生まれた無である。虚しいところから生まれているのだから、それは無いのだ、無いものにとらわれていることはない。
色は即ち空である、空は即ち色である”と普通、説きます。けれど私はそう説いていない。どういうふうに説くかというと、ここ(現象界)に現われているものは色というのです。そして、色は”もの”と解釈するわけです。
そこで、色即是空というのは、現われている、五官で見えているものはいっぺん空にしないと、空と断じ切らないと、本当のものが現われてこない。だから、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、鼻にかぐもの、すべてこの世に現われている(※ように感じている)ものは空なんだ。
そして、空と断じ切ったとき、初めて本当の光り輝くものが現われる。五感に感じられ、六感に感じられるものはすべて空なんだ、それにとらわれてはいけない。
″あるものではなく、あるように見えていて空なんだ”と、空と断ち切って、それにとらわれなくなると、空の奥に神仏の実体があるので、空から本当のものが現われてくる。
空から現われてくるものが本当の光であり、実体なのだ。
そこで、色即是空、空即是色と並べてあるわけです。
五感六感に現われている色(ものごと)を空と断ち切って(※それが”色即是空”)、空になったところから、今度は実体の光、即ち色が現われてくる(※それが”空即是色”)。
こういうことで、同じことなら、何も二つ並べることはないのです。
(つづく)
五井昌久著『空即是色-般若心経の世界』より