(つづき)だから皆さんが、もしこの世の地上の運命で、不遇であるとするならば、悪い人に使われ、いやな奴に使われている身であるとするならば、「イエスでさえも十字架を背負わされて、引きづられていったんだ」、そういうふうに考えたらいい。
あんな立派な人が道を引きづられていくんだからね。あらゆる嘲笑の眼、バカにした眼でみんなに見られているわけですよ。わかるでしょ。
だから自分がもし不遇な地位にあって、みんなにやられているとするならば、「ああ、キリストでもそうなんだ。私もそれだ」って、一人前のキリストになったつもりで思うんですよ。
十字架にかかったつもりで、「ああ、私は軽い十字架だな」と思っていけばいいんですよ。そうすると慰められますよ。
「キリストさえそうだったんだから、自分なんか当り前だ」と思えばいいんですからね。そういうもんなんですよ。(後略)
五井昌久著『講話集〈4〉想いが世界を創っている (講話集 4)』より