(つづき)(中略)各分霊は霊界に所属しながら、その心(念)をもって各幽体を創造し、ここに幽界ができた。
この幽体は、各々の念が記録される場所となる。即ち業因縁の蓄積所である。
ここに蓄積された記録や記憶が肉体の頭脳にキャッチされ、考えとなり行動となってゆく。
この蓄積された記憶を潜在意識といい、頭脳にキャッチされたものを顕在意識という。
怒ろうとせぬのに怒ってしまい、不幸になろうとせぬのに不幸になってしまう等々、すべて潜在意識(幽体・幽界)からの意識の流れによるのである。
この波が常に転回し、不幸の念の蓄積は不幸を呼び、喜びの念の蓄積は喜びを呼ぶというふうに、輪のように転回してゆくので、これが業の因縁、因果と呼ばれている。
このことは後の章において述べることにして、また分霊の説明にうつる。
分霊が最初に幽体、肉体を創造したのは、神が天地、山、海、草木を創造し、動物の創造を司る神霊が動物を創造した、その創造過程が、霊、幽、物質と次第にその光波を物質化した。
いいかえると、エーテル、微粒子、原子(電子、電磁波)としていったと同じ原理で、直霊が各分霊に自己の光を分け与えて、肉体人間の創造を山霊、海霊、木霊、動物を司る霊等と協力して、なさしめたといえるのである。したがって人間(霊)が光波ででき、肉体が原子からできていることと、自然界の法則とは範疇の異なった、等しい原理によるといえよう。
ただ大いに異なることは、山川草木も動物も創造されたるものであって、自己意識、我(知性)を持たぬが、人間は、創造者である分霊そのものが肉体にあって、たゆまざる自己創造をつづけていることである。
これは重大なることであって、釈尊かの言葉に、“人心得難し”とあるのは真である。(つづく)
五井昌久著『神と人間』より