(前略)いいとか悪いとか、向こうと相対的に比べていてはダメです。
相手を見てはダメなんですね。
”敵である”と敵と見ているうちは、敵になるからです。
けれども一度は敵と見てしまいますね。
過去世からのクセで、”自分と相手は他人だ”、”みんな他人だ”と思います。
ところがさかのぼってごらんなさい。
みんな兄弟姉妹なんですよ。
もっとさかのぼれば、神さまのなかに入ってしまうのです。
それなのに他人だと思う。
ところがそれは長い間のクセで、また肉体を守る方法として仕方がないんです。
自分の家族のほうが他人の家族よりかわいいのは当たり前です。
人間は自分をかわいがるように出来ているんで、それはそれでいいのです。
そういうものが肉体の生活です。
とすると、その愛情も消えてゆく姿なんです。
真理の愛というものは、自分の子も他人の子も同じに見ます。
この理論をそのまま実行しようとすると、天と地がつながらない。
真理がそのまま降りてくれば、「神の愛は平等である。お前の子供も隣の子供も、周りの子供もみんな同じなんだ。平等に愛さなければいけない」とやられます。
それはやっても出来ない。
私も出来やしない。
そのために人間は個別に現われてるんです。
この人間の常識では出来ないけれど、神さまの頭では出来るんです。(つづく)
五井昌久著『空即是色―般若心経の世界』より