(前略)南無はやはり、帰命とか生命の源とか訳しますが、妙法蓮華経という後の五文字が、南無阿弥陀仏という唱名とはまるで異なる響きをもっているのです。
妙とは、妙(たえ)なる実相とか、妙々不可思議とかいう、実在、すなわち絶対者(神)の表現なのです。
法とは、のりのことであり、法則のことであり、理念のことなのであります。妙(神)の法則、あるいは神の意志、理念の宣言、つまり神が表現されたということになるのです。
蓮華というのは一つの言葉で、蓮の花のことであります。蓮華は泥中に咲く華(はな)でありますから、これを地上界の汚れの中で華開く、つまり、悟ったということになるのであります。
この場合の悟ったということは、正覚を得たということで、前の言葉につながって、「神の法則を、あるいは理念を、この地上界において立派に華咲かせた。つまり完成させた。そして生命の源に、この地上界にいながら一つになっている」ということになります。
もっと易しく言いますと、「私はすでにこの地上界において正覚を得た仏なのだ」ということになります。
ですから、南無妙法蓮華経とお題目を唱えることは、「私は仏である、私は覚者である、その経を今ここに唱えているのである」ということになるのです。
この理を知って、よくよく南無妙法蓮華経と唱えている調子を聞いてごらんなさい。非常に高い調子の、高揚した、堂々として確信に充ちたリズムをこのお題目はもっているではありませんか。
「私は仏なのだ、覚者なのだ、さあ、みんな私の下にいらっしゃい、みんな救ってあげますぞ……・」というように聞こえるのです。
それを南無阿弥陀仏と同じように考え、このお題目を唱えれば救われる、と想って唱えている人がどれだけ多くいるか計りしれません。(つづく)
五井昌久著『白光への道』より