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消えてゆく姿が生きる時

(前略)”消えてゆく姿”という言葉が、ピリッとききめのあるのは、この世において、幾多の「しまった」というような言葉や行為を、何たびとなくしてしまっている人たちが、宗教の教えに照らし、自分たちの過去の言動をかえりみて、自分を責め裁いていたような場合、この”消えてゆく姿”という言葉が、光のように自分の心を輝かしまして、自分は救われたと思うのです。

もっともこの”消えてゆく姿”という言葉と、善人たちが少しのことや、過去になってどうにもしようのないことで自分を責めているのを、ズバリと赦して下さろうとして、神さまが私を通して、世界平和の祈りと組み合わせて説かせて下さったものなのですから、そうなくてはならなぬはずなのです。(中略)

宗教の根本は、神仏のみ心を人に知らせることにあるのですから、人を責め裁こうとしてあるわけではないのですが、教わるほうの人たちが、宗教の真理と自分たちの行為をひきくらべて、おのずと自分を責めてしまうのです。

自分を責める想いというものは、他人にも当てはまるので、知らぬうちに他人の行為をも、つい責めがちになってしまうのです。

今の行為を責められても、もうその時はすでに過去になってしまっているので、取り返しがつきません。(中略)

消えてゆく姿という言葉をここにもってゆきますと、過去世からの業(カルマ)は世界平和の祈りの大光明の中で消されてゆき、現在ただ今の想念行為だけが、その人々の心の中に蓄積されてゆくのでありますから、いつかは過去世からの業がすっかり消えて、神の子人間の浄らかな自分だけが、世界平和の祈りの中で生活してゆくことになるのであります。

この真理がわかると、実に気が楽になりまして、にわかに楽天家になってしまいます。

真剣に宗教の道に取り組んでいた人々には、意外に自分を責めている人が多く、この消えてゆく姿の教えを知って、心から赦された気がして明るい人柄に生まれ変わっていった人がずいぶんといるのです。(後略)

五井昌久著『祈りのある生活』より