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有りのままを認めながら在るがままに到る道(後半)

(つづき)

悪を悪とみまいとし、

不調和を不調和とみまい

とするような光明思想は、

人間の自然な想いを

ねじ曲げるようなもので、

真実の光明思想

というわけにはまいりません。

無理なく自然に想念が光明化し、

神の子の姿を現わし得る

ようになるのでなければ、

世界人類が救われません。

人間本来

神の分霊であることは

間違いないことなのですから、

みたまま、味わったまま、

現われてくるものすべてを

消えてゆく姿として、

神さまのみ心の中に

送り込んでしまえばよいのです。

実際に

すべては消えてゆく姿

に違いないのですから。

諸行無常、

すべてが変化変滅してゆくのが

この世の自然の姿です。

ただ常住なるものは何か

といいますと、

神のみ心そのものだけなのです。

ですから人間は、

すべては消えてゆく姿として、

神のみ心の中に、

すべての想念行為、現象を

入れきってしまえば

よいわけなのです。

消えてゆく姿という想念で

神のみ心に入り込んでしまう

エレベーターとして、

世界平和の祈りという、

神のみ心そのものである

人類の大調和顕現を願う祈り言を、

日常生活の一瞬一瞬の間に

おいても実行しているのであります。

こういう日常生活というものは、

すべての現象を

無理やり善なりと

思おうとするわけではなく、

自然と悪や不幸や、

自他の想念の誤ちに

把われなくなってしまい、

いつの間にか、

真実の光明思想に

なってしまうのです。

肉体人間、物質人間観が、

自然と

神霊人間観になってしまう

易行道の光明思想が、

消えてゆく姿で

世界平和の祈りなのであります。

(後略)

五井昌久著『霊的存在としての人間』より