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すべては自己責任②

(つづき)

私は皆さんの苦しみを背負います。

皆さんが苦しんでいる、悩んでいる。一緒に苦しんで悩んでいるように見えるけれども、私は苦しんでいませんよ。

心はいつも澄んでいる。心はいつも明るい。

それと同じように、自分が苦しんでいることは、自分の業なのです。

前世の因縁でもって苦しむのです。苦しむ業のない人は苦しまないんです。

同じ立場になっても、同じ環境になっても、苦しまない人は苦しまない。

苦しむ人は苦しむのです。苦しむという業を持っているわけ。

それを超えなければいけません。それが宗教なのです。

祖先が自分か、自分が祖先かというと、祖先の中に自分もいます。いたわけです。何べんか祖先になって生まれて来ています。だから祖先の中に、自分が何人かいるわけです。

しかし、祖先というのは自分自身ではありません。やはり祖先は祖先で違うものです。

もっと深くいえば、全部自分です。

もっと深くいえば、自分独りきりしかいないんです。

けれど、そういう言い方ではなくて、当たり前の言い方をすれば、祖先の中に自分は何人かいる。しかし、祖先が全部自分というわけではありません。

そこでもう一回いいますが、祖先が迷っていて自分にかかってくる、というけれど、それは違うのです。

自分の中にある想い、業を消すために、神さま(※守護の神霊)がそうやってかかったような形でもって、消してくれているわけです。

だから何ものもかかるものではありません。自分の想いが消えてゆく姿として表われてきているのです。

(つづく)

五井昌久著『空即是色-般若心経の世界』より