(つづき)
私は皆さんの苦しみを背負います。
皆さんが苦しんでいる、悩んでいる。一緒に苦しんで悩んでいるように見えるけれども、私は苦しんでいませんよ。
心はいつも澄んでいる。心はいつも明るい。
それと同じように、自分が苦しんでいることは、自分の業なのです。
前世の因縁でもって苦しむのです。苦しむ業のない人は苦しまないんです。
同じ立場になっても、同じ環境になっても、苦しまない人は苦しまない。
苦しむ人は苦しむのです。苦しむという業を持っているわけ。
それを超えなければいけません。それが宗教なのです。
祖先が自分か、自分が祖先かというと、祖先の中に自分もいます。いたわけです。何べんか祖先になって生まれて来ています。だから祖先の中に、自分が何人かいるわけです。
しかし、祖先というのは自分自身ではありません。やはり祖先は祖先で違うものです。
もっと深くいえば、全部自分です。
もっと深くいえば、自分独りきりしかいないんです。
けれど、そういう言い方ではなくて、当たり前の言い方をすれば、祖先の中に自分は何人かいる。しかし、祖先が全部自分というわけではありません。
そこでもう一回いいますが、祖先が迷っていて自分にかかってくる、というけれど、それは違うのです。
自分の中にある想い、業を消すために、神さま(※守護の神霊)がそうやってかかったような形でもって、消してくれているわけです。
だから何ものもかかるものではありません。自分の想いが消えてゆく姿として表われてきているのです。
(つづく)
五井昌久著『空即是色-般若心経の世界』より