(つづき)いと簡単に、「人間の悪を見てはいけない、神の子として拝め」と言われても、そう簡単に拝めるものではないので、そう教えている先生方さえ、その教えを実行し得ているとはいえない状態であるようです。
またその教えを鵜呑みにして、相手を善と見て商業取引をして、相手に引っかかった人を、私は多く知っております。
引っかかっても、「ああ、これで自分の業が一つ消えていったのだ」と想えるような人なら、すべてを善と見て引っかかっても、それが神の道への近道になるのでしょうから結構なことであり、そうした人は、真実の神の子を体得している人なのであります。
ところが大半はそうではなく、そうした引っかかりが出来ると、せっかく教わった『人間の実相は完全円満である』という真理にその時から後ろ向きになってしまって、今度は非常に疑い深い人になってしまったりするのです。
私はそのことを体験として充分知っていましたので、やたらに人を善と見ることを教えずに、人間には本心と業想念とがあって、本心のまわりを業想念が取り囲んでいるので、人間は神の子でありながら、その神のこの本心が、業想念の波動をやぶって、本来の光を放ち得ないでいるものなのだ。
だから、やたらに人を信じて善いというものではない、やたらに人の言うとおりに行動して善いというものでもない。
その人々の本心と業想念をよく区別して、相手の業想念のなかに自己を引きずり込まれてしまってはいけない。
そうした本心と業想念の区別をつける最もよい方法は、自分の先祖の悟った霊である守護霊さんと、その上にいて常にその守護霊に光を送っている守護神さんとに常に想いを向けていて、つまり感謝の想いを送っていると、守護の神霊の側から、その人の心に向けて、その区別を直観的にか、他の人をもって知らせるかして、必ず知らせてくださるものである。
もしそれでもだまされたり、引っかかったりする時は、それこそ過去世からのその人との業因縁が、そこで消え去っていったもので、それも自己の本心を輝かすための必要なことであったのだ、というように説いているのであります。
しかし、それよりもさらによい方法は、世界平和の祈りであると説いているのです。(つづく)
五井昌久著『宗教問答 (〔正〕)』より