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自己完成は守護神霊との一体化による

あらゆるものごとの完成は、すべて、縦横十字の調和、陰陽の和合にあるのでありますから、ことさらに宗教と神様とかいわなくとも、そうした原理を忠実に実行している人は救われに入れるわけなのです。

ただ今日のように、個人は社会と密接なるつながりがあり、社会国家は、人類すべての動向を度外視しては生きられない時代になってきますと、個人の救われのみではまだ足りない、ということになってくるのです。

自己完成がそのまま、世界人類の平和を来たらすものでなくてはならなくなってくるのです。

そのためには、どうしても、個人の生命の親であり、人類をこの地球界に誕生せしめた宇宙神はじめ、守護の神霊とのつながりを、しっかり自己のものとしなければならないのであります。(中略)

調和というのは、不平や不満が想念の中にありながらも、争うことが嫌なために、その不平不満を底に押しこめて、表面上仲良くするということではないのです。また、自己をみじめな立場に置いて、相手を立てる、ということでもないのです。

相手も自分も心の底から喜び合えて、和してゆくというのでなければ、調和ということは出来ないのです。

こうした調和の生活というものは、現在の地球世界のように、不完全、不調和の波動の蔽(おお)っている人類世界では、自己の天来の素質のよさというだけでは、至難の業であるのです。

そこでどうしても、自己の想念の調和精神とのずれを、訴えたり、投げ出したりする誰かが必要となってくるのです。

それはどうしても、同じ地球世界の、いわゆる肉体人間ではだめなのであります。そこで知らず知らずのうちに、自己の心の底でしっかりしたつながりを持つ、大生命、神のみ心の中に、自己の想念を流し込んでゆくことになるのです。

神の無限の調和の供給がなければ、いかに秀れた天来の善なる素質をもっていても、地球世界の業因縁(カルマ)波動に汚されずに済ますことは出来ないのです。

まして、そうした天来の善なる素質というものは、神のみ心とのつながりが素直になされている霊魂魄である証左なのでありますから、神の存在を信じない人が、完全なる人格を現わし得るわけがないのです。

この場合の神は、宇宙神でも守護の神霊でもよいのですが、守護の神霊との全きつながりのない人が、完全なる人格者と成り得ることはありません。

何故なれば、守護の神霊と分霊魂(わけみたま)の自己との一体化によって、はじめて人間は完成することに定まっているからです。(後略)

五井昌久著『信仰と直観』より