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人間の責任

明け方まで降っていた雨が止んで、新緑に残された幾粒もの水滴が、五月の陽光と快く調和し、銀色になり、金色に輝き紫色の光を放つ。天界の美の片鱗が、庭先に映し出されている朝のひととき、私の心は天地の恩寵を感じつつ和やかに佇む。

こうした小さな水滴の中にさえひそんでいる自然の美しさ、それを感ずる人間の美意識。天と地と陽光(ひかり)と風と、雨と草木と人間と、このようなすべての存在の中で、人間のみは美を感じ、醜を感ずる側にあり、その他のすべては、人間に美醜を感じさせる側にある。

いかに自然が美しくあろうとも、観る側の人間が存在しなければその美は成り立たない。自然は観られるそのままに存在し、人間は観るも観ざるも己れの自由に任されたる存在として生きている。そして人間同士お互いの存在を観、聴き、その美醜、善悪を選択する自由を持っている。

この宇宙世界を創造した絶対者は、果たして重点を観る側(人間)と観られる側(自然)とのどちらに置いたのだろうか。私は観る側(人間)に重点を置かれたものと考える。

何故なれば、観るということは、観る力が中に存在しなければ、観るという能力は生まれて来ない。観るということは、意思と感覚との協同作用である。観られる側にはそれがない。

絶対者(神)は観る力となって人間の内部に存在し、自己の創造した自然をみつめている。そして観られる側(自然)に働きかけている創造活動のひびきと、人間の内部における観る力、いのちのひびきとの調和によって生まれる美観を愉しんでいるものと思われる。

この考えをもう一歩進めてゆくと、人間のためにすべての自然が存在するということになってくる。それほど重大な人間という存在が、真実の美意識を失いかけている。

自然の中から美を見失い、最も共通なひびきを持っている人間お互い同士の間から神の理念(おもい)とは全く反対な憎しみと闘争という、生命(いのち)を削る醜悪なる事態を現出させつづけてきた。そして、それが恐怖を生み、悲しみを生み、今将(まさ)に自然そのものを崩壊させようとしている。

私たちはここで改めて神の理念を想い起こさなければならない。美であり、大調和である神の大生命的存在を、そして大生命の分霊(わけみたま)である自分たちを。生命は調和の中に生き、不調和の中では死ぬのである。己れの生命を生かすものは誰か、己れの生命を損なうものは誰か……

私は自己の生命を生かしきる人の一人でも多からんことを祈るものである。

五井昌久著『心はいつも青空』より